わが子が、とにかく元気で、人生を豊かに、楽しく生きていける人間に育ってほしいと、親なら誰もが思うもの。そのためにも、脳の発達にとってよりよい環境を与えてやりたいと、脳科学者たちもまた親である以上は思うのです。
それにはまず、わが子を「見る」こと、「観察する」ことだと、彼らはいいます。何かしらの環境や経験を与えたときに、子どもがどんな「反応」をするかをよく観察して、その子にとって何が必要なのかを「選択」することだと。親の欲目や都合で、「こういう子になってほしいから、これをしなさい」と無理強いしても、本人が求めていない刺激はあまり効果を上げないばかりか、苦痛ばかりが経験として残ってしまいかねないのです。
臨界期のやわらかい脳は、私たち大人に比べれば確かに何でもよく吸収します。しかし、子どもが求めているものをきちんと見極めて、それを「与えるべき時期に与える」のが、健やかな脳の発達には何より大事。だからこそ、臨界期の脳には親をはじめ、周囲の大人たちの客観的かつ大局的な観察が欠かせないのです。
そして、脳の成長を見守ることを親が自ら楽しむこと。そもそも子どもの成長や変化を見守るなんて楽しいに決まってるじゃないかと、脳科学者たちはいいます。これほどドラスティックな変化を目の当たりにできるなど子ども以外の脳にはなく、彼らが科学的好奇心をもっとも駆り立てられるのが、幼少期、臨界期の脳なのです。そんな「科学の目」を少し取り入れることで、楽しいばかりではない子育てがより楽しく、充実したものになるかもしれません。
子どものちょっとした変化や反応にも目を凝らし、「これをさせてみたけどあまり楽しくないみたい、今回は失敗しちゃった」くらいのゆったりした気持ちで、わが子の成長を見守り、失敗も含めて楽しむこと。そして、子どもの反応には、親も反応で返し、安心と信頼の絆を互いに、少しずつ深めていくことです。考えすぎや思いつめすぎ、世間でいわれる「何歳までに○○ができる」といった目安に厳密になりすぎることは、親にも子にもよくありません。
親のストレスは、子どもにストレスとして伝わり、幸福感は幸福感として伝わります。肩の力を少し抜いて、「ちょっとくら心失敗してもいいか」と、まずは親が鷹揚に構えることが、どんなことがあってもたくましく生きていける「いい脳」を創るのです。
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「うちの子は一芸に秀でてさえいれば、変わり者になってもいい」という場合を除けば、臨界期のやわらかい脳にはやはりバランスの取れた生活環境が大事。それも、案外「普通の環境」が、脳にとっては大事なようです。
たとえば「オモチャを片付ける?そんなことはお母さんがやっておいてあげるから、あなたは英語教室に行きなさい」といった態度はあまり感心できません。このとき、オモチャ箱から出したオモチャは、誰かがちゃんと片付けないと、「自動的」にはオモチャ箱に戻らないということを、子どもはそれを片付ける「経験」を通じて学んでいます。「お母さんが片付けておいてあげるわ」は、モノは片付けてこそ、もとに戻るということを知
るせっかくの「経験」を、要するに子どもから奪ってしまうのです。
「片付けたから片付く」という、大人にはごく当たり前と思えるような因果関係にしても、子どもはその過程を目の当たりにし、自分が関わることで、ひとつひとつ学んでいきます。親が手を出しすぎて、その大事な経験を奪ってしまうと、子どもは、オモチヤは自分が知らない間に「自動的」に片付けられていて、ごほんというのは「自動的」に食卓に並び、洗濯物も「自動的」に洗濯されてタンスのなかにしまってあるものだと、思い込みかねません。
もちろん子どもができることには限界がありますから、その子の成長にあわせて「自分でできることは自分でやらせる」ことが大事です。たとえば夕ごほんの支度をほんの一部でいいから手伝わせたり、母親がそれをつくっている「過程」をそばで見せるだけでも、子どもは「そうか。ごはんは、お母さんがつくってくれたから、ここにあるんだ」ということを知ります。それでなくても最近は、冷凍食品をチンするなり、コンビニやデパ地下で惣菜を買ってくるなりすれば、まがりなりにも夕食の支度はできてしまうご時勢。しかし誰かが何もしなくても「自動的」にすべてを行ってくれる「魔法」などこの世にあろうはずがなく、こうしたからこうなるという、世の中の因果を身をもって知る経験や環境は、こんな時代だからこそ親たちが意識的に与える必要があるのです。
その経験は普通すぎるくらいに普通のこと。それでいて、英語教室に行くよりも、塾やお稽古事に行くよりも、その子が生きていくうえで大事なものを、数多く教えてくれるのです。
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